208514 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

あいすまん

あいすまん

文芸部1999~2001 1


この文章は、沖縄国際大学文芸部初代部長のみやじ。がサークル運営の中枢から退くに当たり、創立当時の状況を記録として残すべきだと考え、『沖国大文学』第二号発行に合わ
せて2万字あまりにまとめたものです。あまり深く考えず正直に書いたので記録文として適切であるかどうかわかりませんが、今後のサークル運営の手助けになれば幸いであるし、直
接は関係のない方々にお読みいただけても、たとえば『Amp!』や『沖国大文学』創刊号を読んだことのある方なら「裏側にそんなエピソードが」、みたいなかんじで楽しんでいただければ
幸いです。
(みやじ。 2001.9.21)

1.創立(1999年4月)
 
 文学的資質は問題ではなかった。今時文学を志す人間などいないという(これまでの経験からくる)狭い見識による妙
な諦めもあった。一緒にやってくれる、手伝ってくれる人なら誰でも良かった。
 1999年春、わたしは県内では琉球大学に続く、全国的には私立大の中堅に位置するという沖縄国際大学に入学し
た当時、文芸部を興すことしか頭になかった。そのために入学した。単位などどうでも良かった。受験から解放され、大
学に吹くという自由の風、「可能性」という言葉にとり憑かれたように、ただ漠然とした期待に身をゆだね、何でもできると
思い込んでいた。

 実際、始めるだけならスムーズだった。4月の早い時期に、事務窓口や世話役の教授の話を聞き、学生課から「サーク
ル設立・更新届」を受け取り、その日一緒にお昼ご飯を食べた高校からの仲間に一通り名前を書かせた。どんなメンバ
ーでもやっていけるという自信もあった。前の月まで部長をしていた首里高校文芸部では、ジャンルを限定しない雑誌
『WASAVI』を「ゲリラ的」(地元新聞紙上での詩人おおしろ建さんの高文連部誌コンクール評より。応募もしていないのに
言及されたのには感激した)に配布していた。エンターテイメントを意識し、書きたいものを書けば需要は跳ね上がるとい
う経験から来る自信だった。まず人を集めたら、皆で書き続け、飽きた人は辞めるという自然淘汰を待つ。そういう(単純
な)シナリオが頭の中に描かれていた。これは高校の頃の失敗を活かすべく考えたつもりだった。首里高文芸部は、ケ
モリン(その頃は本名で活動していたが)の企画・構成力、批評眼(自己批判も含めて)に加えわたしの編集、宣伝によっ
て『WASAVI』を「伝説」(1999年度高文連部誌コンクール交流会にて真和志高文芸部島くんの言)の部誌として華々しく
登場させたが、後輩との隔絶により受け継がれることなく消えた。いくら新刊発行時に廊下や階段の壁をポスターで埋
め尽くすような宣伝をして、「ファッキン首里高」や「首里高に食人鬼がいた」「LUNASEA座談会」などの企画を毎号設
け、配布開始から三十分で二百部品切れの人気を博しても、内実は二人のワンマン部であり、新入部員に同じものを要
求するのはお門違いだった。だから大学では集まった人間の特性に合わせて雑誌ができればいいと思っていた。しかし
今思えばこの時点でシナリオどおりにことが進むと思い込んでいたことが、以後部内に響いた不協和音の原因だったの
かもしれないし、『WASAVI』発案者のケモリンなしで(彼は一年浪人)これまで以上のことがやっていけるかという不安も
あったかもしれない。ただ、この時点では雑多な、なんでもありのエンターテイメントを創り出して人を集め、文学をやる
のはその後でいいと思っていた。

 とにかく、この時わたしに「書くだけでいいから名前貸して」と嘘を吐かれ、名簿に記名したメンバーにはホアキンOdo
や金城承太郎(きんじょう・じょうたろう)、近藤武蔵など、7月に創刊する『Amp!』の一翼を担うことになるメンバーが既に
揃っていた。同時期に、わたしはキュウリユキコの呼びかけで集まったKや梅(後にさくらと改名)、さとこなどにも昼飯時
に名前を借りて協力してもらい、四月中頃には第一期メンバーといえる十人弱がほぼ確定した。名称は「沖縄国際大学
文芸同好会」で申請し受理された。

2.『Amp!』

 次に行われたのは飲み会である。いよいよ沖国大文芸部が動き出すにあたり、まずは親睦を深めようという名目で、
飲んだ。居酒屋で、部員の家で、カラオケで。連日連夜飲み会が続き、わたしは初めのうちは音楽誌や同人誌などをサ
ンプルとして持ってきては、理想を語るなどしつつ飲んだが、週に3回強のペースで飲んだくれているうちにどうでもよく
なり、好きにやるのが一番、という結論に達して、島酒やビール、つまみや他愛無い閑談、歌声や絶叫、それぞれの思
惑や眠気や吐瀉物に塗れて吐き出されたのが、記念すべき沖縄国際大学文芸部初の冊子『Amp!』創刊号である。

 表紙に白紙を使い、他はザラ紙のB5版両面刷り28頁。表紙には以後部のマスコットと化していく「偽パンダ」(額に
「善」腹部に「偽」という字が書かれ、チャックがついており、マントを羽織り空を飛ぶ)がいたいけな犬猫を騙しているイラ
ストが施され、裏表紙はその「偽パンダ」が読者の悩みを聞いていくという漫画。(作は宮城隆尋)この漫画は5号まで継
続して描かれる。(5号はケモリン作)そして中身は、巻頭に特集を組み、部員お気に入りのCDや映画などを紹介するコ
ーナー「ミニレビュー」を挟んで、部員の持つ連載が続くというかたちで、これは休刊号となる5号まで変わらない。創刊
号の特集は「沖国ロックラブ学外ライブレポート」であった。その頃わたしは、ロッククラブ内のバンド「やとわれ救世主」
のライブを見てかなりの衝撃を覚え、ボーカルの村田さんにあつかましくもインタビューの約束をとりつけるなどしていた
ため、その流れで『Amp!』を「音楽系文芸誌」と位置付け、音楽を目玉として取り扱っていこうと考えていた。
その「学外ライブレポ」では、部員数名で鑑賞したライブをわたしが4頁3000字あまりにまとめ、各バンド写真付き(印
刷精度が悪く殆ど潰れているが)で紹介するという形式。そして次頁にはわたしの詩「ゲルニカ」「横たわる猫」がしょぼ
いイラスト付きで掲載され、次にキュウリユキコが「喉ごしスッキリやっぱりポップス」と題してミュージシャン「ゆず」を紹
介している。以下、前述の「やとわれ」を初めて見た際のわたしのライブレポを挟んで「ミニレビュー」のコーナー。ここで
はロックバンド「L`Arc~en~Ciel」などを松隆(まったか)が紹介、「SPITZ」を達筆が、映画「ハムナプトラ」を金城承太郎
が、東真弘がシンガーソングライター「坂本真綾」を紹介していて、以後もこの4人が中心になっていく。東真弘は他にエ
ッセイ「ちょっとまじめなひとりごと」で恋愛を論じた。その内容としては、「相手が自分にないものを持っている」から人は
恋に落ち、それ故に理解に苦しむこともあるが、「自然体」で接することができた時がスタート、というもの。著者自身が
自然体の素朴な文体で自己の体験を通して描いた等身大の恋愛像が好評を博し、2号に続編を執筆した。そしてKは
「進めッ!着メロ王道」第1回を描いている。このコーナーはKが考案した独自の着メロを個性的な(濃い)イラスト付きで
紹介するというもの。著者近影のコーナー「いちごみるくいかが!?」では、大嫌いなヨーグルトを体のために食べることに
したので「誰か砂糖をたくさん下さい」と募集したりと、個性の凝縮された濃密な頁となっている。次頁「さとこの部屋」で
は、そのKをさとこが迎え、「対談・賞味期限について」と題し、Kが常日頃標榜する「イイ女になるための十五条」(自作)
に「賞味期限を守る」ってあるけどお前自身賞味期限切れてんじゃねーの?と暗黒な問いを投げかけ、対しKは「彼氏が
できたら期限はなくなる」と応戦、さとこが「あなた一人つくらせません。一緒に街へくりだしましょう」とまとめるという、微
妙なコンビネーションを発揮している。両コーナーとも2号まで連載されるが、3号で中断、以後再開されることはなかっ
た。他に近藤武蔵(近藤武刺、近藤武、興司ティップムーン)の占い「大三角形の秘宝」も創刊号、2、4号に連載され、
創刊号のみでは、梅の、読者同士の情報交換の場を目指したコーナー「HARVEST」や、県内各地のライブ情報を掲載
した努の「イベント情報」もあった。

 そして巻末近くに個性の強い3つのコーナー「マッコイのカラオケ王(キング)への道」「タムケン音楽界に斬られる!」
「ホアキン的3分ヴォーカルクッキング」がある。マッコイは第4回まで連載。皆で楽しむうえでのキーポイントとなる最初
の選曲について論じた「カラオケで最初に歌う時」(創刊号)、飲んで壊れるのもいいが、酒は飲んでも飲まれるなと体験
も交え考察した「カラオケで酒を飲むなら」(2号)、自分の歌に点数をつけてくれる採点モードは、メーカーやモードによ
ってばらつきのある感じがするが、あくまで楽しむのが目的なのでほどほどに、とレクチャーした「カラオケの採点基準
は?」(4号)、室内で座る位置によってその人の性格がわかるという「カラオケ性格判断」(5号)。好きこそものの何とや
ら。多様で深い。身近な題材ゆえか、このコーナーも人気があり、「文が下手」(「『Amp!』5アンケート」より)という辛い意
見から「カラオケ自体をどうこう言うわけじゃなくて、カラオケでどう歌うかが論じられていて、視点が新鮮」(「『Amp!』2ア
ンケート」)という評まで反応は様々だった。文体に関しては、正しい日本語とはいえないかもしれないが、独自の言葉や
文法を揺れ無く使い分けており、下手というより個性として、作品に独自の雰囲気を出すのに効果的に作用していた。

 タムケンは音楽に関する豊富な知識を活かし、これからブレイクするであろうアーティストに焦点を当てて、自身の体
験を絡め独自の切り口で紹介していった。第4回まで連載。「第1回―タムケン的沖縄生活音楽―」(創刊号)では「やっ
てることはおいしいとこ取り」「でもカッコイイから許す」という「ドラゴン・アッシュ」について、「第2回―悦楽編―」(2号)で
は「この早熟な林檎は毒を含みつつ、ますます甘味を増していくだろう」と評した「椎名林檎」について、「第3回―驚きホ
モの気編―」(4号)では実家近くのCDショップで「一目惚れならぬ一聴き惚れし」たという「くるり」について、「笑ってい
いホモ編」(5号)では「その痛い程に書きなぐり、積み上げられた詩。崩れ去った金字塔を悼むような声。ぼくらを優しさ
とあきらめで包むようなメロディー」に「何度泣かされたことか…」という「七尾旅人」について紹介。自らも音楽に携わるタ
ムケンの、音楽にかける情熱が伝わってくるような連載だった。

 ホアキンOdoは、自ら歌に携わりこれまで蓄積してきた知識をフルに活用し、歌の何たるかを論理的に解説してみせ
た。第一回の「日本男性ロックヴォーカル事情」(創刊号)では、「今の日本のロック界に本物の「歌」を聞かせられるヴォ
ーカルは、ほとんど存在しない」「特にヤバイのがヴィジュアル系」として、「ヴィジュアル系の中ではかなり上手いほうの
3人」を例に挙げ、「1、声が腹から出ていて、安定しているか。2、表現力があるか。3、聞いてて不快感を感じないか」
の3つの観点から、タイプの違う3人のヴォーカルが、どれができていてどれができていないのかと分かり易く論じた。そ
して第2回は「ホアキン厳選!!メチャうま3大ヴォーカル1」と題してロックバンドB`zのヴォーカリスト稲葉浩志を紹介した。
この回も、稲葉は「腹から声が出ているから高音をしっかり出せるし、低音、中音もしっかり歌いこなせる」としつつも、デ
ビュー当時は「声が内にこもっている」という欠点があったと指摘するなど、論を展開。その「欠点」を克服した彼の努力
に「尊敬の意を抱かずにはいられない」として、歌には「努力」が大事、と説いた。第3回は「3大ヴォーカル」の続きとして
THE ALFEEの桜井賢を紹介することになっていたが、連載は中断し、再開されなかった。

 7月23日に発行、9月には増刷もされた創刊号は、友人知人を中心に配り歩いたが、「学外ライブレポ」の笑いを狙っ
た自虐的な文体に、その頃はまだロック部員だったタムケンは「読ませるテクニックを感じる」と評してくれたが、
『WASAVI』を知る友人には「『Amp!』は面白くないね」とはっきり言ってくれる者もいて、複雑な心境だった。

 第2号は、夏期休暇明けの10月22日、やとわれ救世主村田さんへのインタビューを巻頭6頁の特集とし、さらに県内
の話題のお店を(飲食店を中心に)部員で手分けして取材し、紹介した、実用企画「沖縄を食べ尽くせ!」の二つの特集
を組んだ。各連載陣も2回目とあって伸び伸びとそれぞれの味を出しており、金城承太郎も漫画『ジョジョの奇妙な冒険』
を紹介するコーナー「じおまに―ECCENTRIC Giogio MANUAL―」を始めるなど、44頁に膨らんだ頁数以上に充実した
内容だった。「じおまに」は4号に第2回が書かれる。また、わたしのエッセイ「みやじ的どうでもいい話」の連載もこの号
からスタートし、第1回「あほの歩行者」には「笑った」という意見が多数寄せられた。この「どうでも~」は、3号に99年度
流行語大賞に疑問を投げかけた第2回「カリスマみやじのミレニアムどうでもいい話は定説です」が、4号に沖国大の構
内に暮らす猫たちに絡め、マナーの悪い一部の学生について言及した第3回「沖国猫」が掲載された。他にホアキンや
梅の詩も載っている。この号は、誌面にも表れているが、第一期メンバーで活動中ではおそらく最も充実した活動がなさ
れていた時期だろう。夏休みの企画として、合宿と称した花火大会(=飲み会)をするため皆でペンションへ行く道中、三
手に別れ、それぞれで特集のためにお昼ご飯をかねて飲食店に取材に行くという、およそ部活らしい分担作業がなされ
ていた。

 一転して3号は、「どうでもいい話」以外の連載が全て落ち、わたし以外の部員の顔が見えるのは詩とレビューのコー
ナーの他には、新加入の陽の近況報告的エッセイ「まりも陽かん」だけ。発行を見合わせようか、という話が出るほどの
事態となった。休暇明けに部員が集まらなくなり、まだ部室を獲得していなかったせいもあるが、何より部長自体学校へ
の出席率が著しく悪化し、サークルとしての文芸部は事実上機能不全に陥っていた。ここに既に部長の精神状態に左
右されてしまうワンマン部の悪性体質が露呈している。「お詫び」と題した編集後記には「この事態を真摯に受け止め我
が部の現状を見つめなおし、次号からは前号以上の内容にレベルアップしてAmp!が再出発を図ることが出来るよう、誌
面の大幅リニューアルを予定しています」(宮城隆尋)と記した。ちなみに「まりも陽かん」は5号に第2回「季節限定商
品」、第3回「マイブーム」が同時掲載される。

 総合誌とはっきりカテゴライズし、「音楽に限らない」誌面作りを目指した4号は、2000年度の始まりとともに発行。新
入生向けに「特集・沖国大!」を組んだ。特集は二つに分かれており、前半の「昼飯はここで食え!」では構内の厚生会
館や学食、喫茶室から、大学周辺の弁当屋さん、喫茶店、キングタコスや吉野家などを辛口レビューで紹介。後半「ここ
が変だよ沖国大!」は座談会で、3月の春期休暇中に陽の自宅で収録した、部員8人での沖国大についての下ネタ内
輪ネタ満載脱線しまくりの酔っ払いの会話。特集は16頁におよび、各部員の連載も殆ど再開され、キュウリユキコの詩
も含め、40頁は過去二番目の厚さ。4月1日を予定していた発行が5月6日までずれ込んだのは痛かったが、大量30
0部を配布した。この号には「今まででいちばんおもしろい」(「『Amp!』4アンケート」)という意見もあったが、座談会の内
容に事実誤認やプライバシーの問題を指摘され、「不愉快だ」と訴えた意見が直接わたしにEメールで届くなど、物議を
かもして、結局第2回配布からは座談会部分をカットすることになった。

 そして、事実上休刊号となってしまった5号。いいかげん部長のワンマンぶりとオーバーワークは周知の問題点となっ
ており、反省して、特集を「駄菓子レボリューション」と題して新入生伊波泰志と寿司(カレー名人)、3月入部の志乃、
音々の新入部員4人が編集を担当。わたしはほぼノータッチで11頁の特集が出来上がった。ココア、ピザ、めんたい味
など様々な種類のある菓子「うまい棒」をごはんや牛乳、ケチャップと混ぜて食べ、新しい味を発見するというカレー名人
のアイディアや、伊波のイラストと志乃、音々のデザインセンスが活かされた丁寧なレイアウトなど、過去最高の特集だ
ったとわたしは思う。特集以外には、ミニレビューのコーナーが、新加入ロベルト・ヨッジオがサッカー中田英寿について
語るなど、これまでで最多の7ジャンルについて広く触れており、充実。タムケン、マッコイ、陽の連載と、マッコイの小話
的な「それいけナルシスト」なども巻末に適度な笑いを散りばめ、「新入生」ケモリンが裏表紙の偽パンダの漫画「悩み
相談パンダ-1」を描くなど、32頁。初めてザラ紙でなく中質紙に印刷して見た目が良くなったせいもあるが、内容的に
もレベルアップしたものになった。新戦力がこの時点では6人を数え、彼らが中心となった『Amp!』であり、第二期メンバ
ーの作といっていいだろう。この頃には部室で編集作業ができる環境が整っていたが、再び夏期休暇によって部室に人
が集まらなくなって進行が滞り、6号の特集となるはずだった「逆ギレ」の記事はまとまらず、霧散して、一年続いた
『Amp!』は休刊となった。

 この間わたしは毎週部会のたびに「誰にでも読めて誰もが読みたくなるような幅広い雑誌」という理想を部員に訴えて
きた。方向性を明確に示してしつこくクドクドと繰り返したわけだが、それが結束につながったのは2号までで、結果的に
はそれが部を縛り付けてしまい、その時々の顔ぶれやタイミングもあるが、わたしが興したAmp!はわたしの手で休刊に
追い込まれた形となった。

3.二つの飲み会(1999年7月)

 話を部の流れに戻そう。『Amp!』創刊の頃、わたしは前年自費出版していた詩集『盲目』で第22回山之口貘賞を受賞
した。その頃はまだ18歳で、最年少受賞であり、同時受賞の奄美の藤井令一さんとは50歳も離れていた。受賞当日の
インタビューの時点ではことの重大さに気付かず、淡々と自己主張を繰り返してしまったため、発表翌日の新聞には受
賞に照れた藤井さんと対照的に並べられていた。授賞式には、実力もコネクションもないわたしが詩人として沖縄の詩
壇で活躍中の皆さんの中に入っていくのが不安でたまらず、手当たり次第に友人、知人を誘って、会場にきてもらった。
緊張して頭に血が上り、壇上で賞状と副賞を授与される際に、スーツのポケットから携帯電話のストラップが出ているの
にも気付かなかった。式終了後に、来てもらった仲間と国際通りの居酒屋で二次会となったが、手当たり次第に呼んだ
のはやはりまずかった。わたしを祝いに来たわけではないらしい者が数名おり、琉大で女子の少ない学科に属している
という彼らは、わたしが懸命に「二次会の場所はこっちだよ」と呼びかけても応えず、部員を見ながら誰が好みとかそうじ
ゃないとかいう話に興じており、飲み始めても席順やなんやでもめたりするなど、言語道断不届き千判、まさに傍若無人
な振る舞いでわたしなど眼中にないと思しく、わたしは立ち上がった際わたしの上部のみ異様に低くなっていた天井に何
度か頭を打ち付けたりしながら、まとめよう盛り上げようと頑張ったが、無駄であり、めでたいはずの二次会で、わたしは
最低な気分になった。しかし祝賀会では、部員の皆が、参加しているにもかかわらず祝電を用意してくれ、しかも話題の
「どらえもん電報」であり、わたしは泣きそうになりながらどらえもんごと自宅に持ち帰り、寝室に飾ったのであって、感動
した。
 感動といえば、7月に部員の自宅で行った飲み会だった。部会が長引いたため、先に部員数名に準備をしに行っても
らったのだが、わたしと残る2人が後から氷を買いつつ到着すると、その2人と氷だけ入室が許可され、わたし一人玄関
の外においてけぼり。何事かと思いきや数分後にわたしも入っていいと許しが出て、入ると闇。ぱん、と破裂音。舞い散
る紙テープと19本の火の点いたロウソク。わたしの誕生会だった。創部した時から毎月部員の誕生日は皆で祝うのが
慣習だったが、わたしをだしぬいて部員たちだけで企画してくれることなど全く予想していなかった。ろうそくの点いたケ
ーキと、欲しかったpierrotのアルバムを前に、わたしは「ハッピーである」と絶叫し、泣きじゃくりそうになったが、我慢し、
しんみり喜んだ。いい部はいい部員から。実感した。

4.狂乱の宴(1999年9月)

 第一期文芸部は四月から飲んだくれていたが、最も乱れたのは夏休みに皆で行った恩納村のペンションでの飲み会
だった。
 わたしはこの「合宿」で『Amp!』2号の企画「沖縄を食べ尽くせ!」の取材と、その結果を踏まえた座談会を行おうと計画
していた。しかし、皆で浜へ下り、花火などして、健全な雰囲気のまま座談会に移れると思いきや、酒が入り、わたしが
無理をして盛り上がっていると、皆ノリ良くついてくるのであり、テンションはうなぎのぼりで、酒がまわるころには、タムケ
ンが来る途中で衝動買いした小型キーボードで弾き語る傍ら、マッコイが半裸で男を次々に襲っており、東は浴びるよう
に飲んで潰れていて、近藤武蔵は梅に迫っており、わたしが引くありさまで、予想以上に狂喜乱舞する魑魅魍魎どもを
目の当たりに「座談会など無理だ」と悟ったのである。酒も大量に消費し、ソファや箪笥、調度品が散乱する室内で、器
物破損がなかっただけマシか、などと思いながら夜が明け、正気を取り戻して梅に陳謝する近藤武蔵や、二日酔いで一
気にトーンダウンした面々を引き連れ、わたしも朦朧とした意識の中、千円多く払ってしまったような気がしながら疲労困
憊帰途についた。

5.ホームページ公開。しかし…(2000年1月)

 夏休みが明けると、後期の基礎ゼミの担当は図書館司書の資格を目指す学生には馴染み深い山口先生であり、前
期大野先生の詩を書かせ文集を作らせるという講義も面白かったが、山口先生はパソコンの基本的な使い方を教えて
くださり、自分のホームページを持たせてくれた。わたしはこの機会を利用しない手はないと思った。授業中おもむろに
文芸部のHPを作り始めたのだ。しかしそれも先生は快く受け入れてくださり、写真のアップの仕方まで教えてくれ、スキ
ャナーでの画像の取り込みは実際に実演してくれたのだが、わたしはニブチンなので多忙な先生の昼休みを潰している
ことに気付かず、「お腹すいてない?」という問いに「すいてませんが」と返しただけで作業を続けてもらうなど、無礼を極
めた。そういう時は「じゃあ後は自分でやりますんで」とか言って先生に昼休みを返すべきであったと3ヶ月ぐらい後に気
付いた。
 当初はわたしのプロフィールのみ力が入った何のHPかわからないサイトだったが、次第に『Amp!』の記事を少しずつ
打ち込んでいき、年が明けた1月に正式公開の運びとなった。まず適当に検索エンジンで大学の文芸サークルを探し、
最初に出会った神戸女子大学近代文学研究会とリンクを交わした。現在でも月刊の『鬼薊』を定期的に郵送してくださ
り、意欲的な活動を展開するサークルである。そして東大ペンクラブの大島さんという方が運営している「全国高校大学
文芸部リング」から様々な大学文芸部のHPを発見しては覗き見て掲示板にお邪魔するなどし、2ヶ月ほどで8校に相互
リンクを結んだ。その中でも日本大学商学部文芸研究部や金沢学院大学「創樹会」、茨城大学文芸部などはウェブ上で
もとても活気に溢れていたが、わたしはその頃まだネット初心者であり、この数ヶ月前まで手紙もろくに書いたことのない
生活を送っていたため文章での人とのコミュニケーションの取り方がいまいち良く分からず、生まれて始めて会話に苦
戦していた。また、ネット上の会話での暗黙の了解がいくつかあることも気付かず、何度か嫌になるような経験をして、3
月頃からHPの更新や掲示板のレスが滞り、それに伴って他校からの来訪者も殆どいなくなる時期があった。
 しかしやはり同じ志を持つ団体と接点を持てたのは良かった。ウェブ上でのつながりが、この年の夏の日大商学部と
の交流会や2001年2月の全国総会へと繋がることになろうとは、当初は夢にも思わなかったが。
 わたしの会話恐怖症は春休み頃には回復して、それから現在まで更新(新たな作品のアップや模様替え)と掲示板の
レスという、ほぼ同じような活動を続けることになる。HPを通じ、志を同じくする方々と出会えたことは貴重で、これまで
の2年間の活動の大きな成果といえるのではないか。

6.高文連交流会(2000年2月)

 高校の文芸部が年に1回、日頃の活動成果をまとめた部誌の出来を競い合う高文連部誌コンクール。わたしはそこ
に、詩の同人「KANA」の合評会で知り合った、詩人で高校教諭のおおしろ建さんに招かれて参加させていただいた。
 芥川賞作家目取真俊へのインタビューを掲載して、その年最優秀賞を受賞した宮古高校は、経費や日程の都合上参
加していなかったが、そこには後にわたしから部長を継がされることになる伊波泰志率いる那覇高校文芸部や、年刊の
『あだん』に加え「DE ESPERANT」で強烈な個性を発信している知念高校文芸部などがいた。わたしはその場で高校時
代の『WASAVI』の話や、交流はできる時にやらなきゃ、大学に上がると沖縄では沖国にしか文芸団体がないから交流
会もできないよ、というふうな話をして、伊波と、ともに司会をしていた真和志高校の島君に感心したりしつつ、小禄高校
や昭和薬科高校、コザ高校の面々ももっと話に乗ってこいよ、とか思っていた記憶がある。あと後半は小便を我慢してい
たので早く終わって欲しかったりしたが、あのような機会を設け、余計な口出しはせず傍から見守っている先生方の姿に
感動したりもした。

7.焼肉パーティーで初座談会(2000年3月)

 夏の合宿はペンションで惨憺たる惨状を呈したが、春の合宿は部員、陽の自宅へ集合し、焼肉パーティーを敢行した。
志乃や音々、文助などが加わり、男女比率も逆転(女5男3)し、夏の面々とはかなり趣を変えた。男が減ると当然暴れ
ぐあいも変化し、多少おとなしい会になったので、今度こそ座談会を、と『Amp!』4号の新歓特集「沖国大!」に合わせて
「沖国大はどうなのか」というテーマで話し合い、収録した。結果は、表面的におとなしくなっても中身は変わらない、とい
うことが起こされた文面(記事)から浮き彫りになった。まさに酔っ払い同士の会話で、サークル批判や大学の施設への
不満、身内のギャグや下ネタ、駄洒落などが続いて最後は「信じればトイレはきっと流れる!」と力強い叫びで合唱して
終わるという微妙な代物。わたしはテープを起こしながら爆笑していたが、発行後に学内でプライバシーの観点から賛
否両論巻き起こり、結局は記事自体削除することになる。
 また、志乃と音々はこの直前新入部員として加入した。志乃は同年11月に退部したが、事実上10月頃までの活動だ
った。携帯電話のメールから生まれる恋愛の姿を小説に描き、その後部内での合評を生かして、黒という色をかすがい
にする二人の、脆く儚い幻想の恋愛劇ともいうべき小説「カラー」に、その筆力を結実させる。音々はエッセイ「あい」で、
日常のひとコマからふと気付いた母の愛を描いたが、志乃と同時に退部することとなった。

8.諸刃の剣だった「一に宣伝二に宣伝」作戦(2000年4月)

 2000年度が明け、4月の部会を見学に来た新入生は3人であり、そこで伊波泰志と再会。もう2人はケモリンと、類い
稀なギャグセンスと観察眼で後に多くのマンガや、小説「バスの運転手」を書くことになる寿司であった。しかしそれ以降
新入生は入らずじまい。わたしは、高校の頃過剰なまでの宣伝ですぐに五、六名の入部希望者が来たので、大学でも
新歓は「一に宣伝二に宣伝」だと思い、大量に刷ったポスターと新歓パンフレット「偽パンダしんぶん」を各学部新入生オ
リエンテーション会場に配布した。総数千枚以上のビラ作戦は普段から活発にビラを撒いている自治会の方々をも驚か
せるものだったらしいが、あまりのしつこさに却って新入生が引いてしまったという指摘もあり、今では多少の後悔が残
る。
 ともあれ、3人の新入生に加え、志乃、音々の2人の2年生新入部員と、キュウリユキコやタムケンなど、常時参加する
者が約半数に減った創立時からのメンバー、これら総勢10人強で第二期文芸部が始動。ロベルト・ヨッジオやその他ホ
アキン繋がりで協力してくれた方々の力も借りて、『Amp!』5号を発刊した。

9.突然の方針転換(2000年4月~5月)

 4月から5月にかけて、わたしは「いよいよ時期が来た」と勝手に思い込んでいた。創立当初から頭にあった、文学をや
る時、である。伊波泰志が入部し、寿司や志乃が小説を書き、音々がエッセイを、キュウリユキコや梅が詩を書く。人材
の変化は確かにあったが、それが転換を求めていると解釈したのは勘違いだった。これまでAmp!の企画・編集に関して
のみ話し合っていた部会を、文芸誌創刊を目指した合評会、読書会などに分化し、文学に特化した活動に変えていく方
針を打ち出したのだが、それまでのメンバーをおいてけぼりにすることに対する配慮など眼中になく、これまで言い続け
てきたことを実行に移すという程度の認識だったわたしは甘かった。部員にとっては寝耳に水だったに違いない。特に創
立時からのメンバーは動揺を隠せず、ほとんどが部会に参加しなくなった。そのうちの一人の「辞典がないと部会にいけ
ない」というせりふ。後悔の二文字はわたしの脳内に焼き付いて今なお消えない。

10.前身との接触(2000年3月~6月)

 沖縄国際大学近代小説研究会。これは1995年まで今の文芸部室を使っていたサークルの名称である。わたしが入
学した時には既に廃部となっていて直接の接触はないが、同じような活動内容であったことが我が部の部室獲得をスム
ーズに運ばせた。いわば前身というべきサークルで、1985年に神奈川県出身の照井裕という方が中心になって創立し
たという。照井さんは後に(在学中)、小説「フルサトのダイエー」で新沖縄文学賞を受賞する。「近小研」の略称で親しま
れ、毎年ある程度安定した数の部員を擁し、95年まで活動した。近小研は、創立4年前に当時沖国生の大石直樹とい
う方が中心となって興した「沖縄青年文芸同好会」が創刊した冊子『炎天』を3号から復刊という形で引継いだ。照井さん
が在籍した復刊当時には『文学界』の「同人雑誌評」である程度の評価を受けるなど、「学生の文集作り」から脱却する
という高いレベルを意識した活動を行っていた。87年には映画同好会「アマチュア・シネマ」を吸収するなど、様々な表
現形態を内包した。学生はもちろん、教授から学外投稿まで、多様な書き手を擁し、部内誌『井戸端』や『鯱』なども発
行、映画作品も年2本程度発表しつづけたが、95年、『炎天』16号を近代小説研究会10周年記念号として発行して以
来、おそらく事実上の廃部状態に陥った。

 右のような知識は、わたしが古本屋を回って『炎天』を集めることで身につけた面もあるが、最も大きいのはやはり与
儀さんとの出会いである。まさに偶然だった。2000年3月、那覇市与儀の古本屋。わたしはレポートのため資料を探
し、ついでに普段から集めている沖縄関係の書籍も探していたのだが、その店には雑誌『新沖縄文学』のバックナンバ
ーが殆ど揃っていたり、20年以上前の『月刊ジャンプ』があるなどレアな書籍が豊富で、驚愕しているとレジの方から
「貘賞の方ですよね?」と声。わたしの顔のアップが載った新聞記事(琉球新報2000年1月4日の夕刊「おきなわの
顔」)を切り取って売上を記録するノートに貼っていてくださるその人は、近小研3代目部長与儀豊さんであり、以来何度
か来店して店先に居座り、近小研に関する貴重なお話を聴くことができた。与儀さんは、わたしが2時間以上居座っても
嫌な顔一つせずコーヒーまでご馳走してくれ、その場でサインをねだるなどボケの鋭い人でもあった。
 最近店舗を移転したようだが、わたしは移転先を探し出したのであり、迷惑も顧みずまた挨拶に伺った。与儀さんから
いただいたものも併せ、今手元に『炎天』2~7号、11号、16号と、「特集 同人誌・個人誌の現在」に『炎天』同人だった
森田義之という方が近小研の現状について報告した『季刊おきなわ』2号(85年12月)などがあり、なかでも『炎天』16
号には「近代小説研究会10周年に寄せて」と題し、過去の顧問や部長を中心に文章が寄稿されていて、沿革もあり、1
0年の流れが一目でわかって興味深い。

11.正式に部に昇格(2000年6月)

 文化団体連合会の方々の特別なはからいにより、異例の創立1年での部室・部費獲得。6月の文連部長会議では、
直前にサークル批判の『Amp!』4号を発行しているにもかかわらず全会一致での承認だった。1年間、安定して冊子を発
行し、実績を残してきたことを買われ、304号室が以前文芸系の近小研に使われていたことなどもあってのものだった。
これまでの「文芸同好会」から、部の正式名称を「沖縄国際大学文芸部」に改め、初代部長を宮城隆尋とした。部室には
数年間の埃と、近小研の残した印刷機らしき機械の残骸や大きなベニヤ板、歪んだハンガー、汚れた座布団、錆びたカ
セットコンロなどのゴミ、まだ使えそうな棚や椅子、机など、様々な物が詰まっており、物置状態。まず掃除。おおかたの
物を捨て、新たに棚を運び込み、インクで汚れた床を磨いた。百円ショップで文具や家具、調度品を買い込んだ。寿司は
時計やカレンダー、招き猫の置物などを買ってきた。その後人が訪れなくなる時期もあったが、今では多くの新入部員を
はじめ、現部長の伊波泰志を中心に毎週部員が集まる場となっている。文連の方々には、学祭参加の手助けから普段
の活動まで気にかけてくださり、休部となったサークルの部室から冷蔵庫や本棚を譲り受ける際の仲介までしてくれ、感
謝の一言に尽きる。

12.休刊と創刊の狭間で。(2000年7月~8月)

 2000年度は正式な文芸部初年度にして、2度も廃部の危機に瀕した波乱の年だった。まず1度目は長い夏期休暇
に入る頃、7月から8月にかけて。2度目は後で述べる学祭の頃である。7月、同好会として創立した時から活動の基盤
だった『Amp!』が休刊となり、翌月、新たに月刊のフリーペーパー「偽パンダつうしん」が創刊する。しかし、事実上『Amp!』
の作成はこの頃まだ活動の中心となっていた。つまり幻となった6号は実はある程度作っていたのだが、部室を獲得し
たにもかかわらず、わたしを含め部員がなかなか集まらないという事態になっていた。ムードメーカーだったキュウリユキ
コの一時的な退部のせいもあるが、先述の方針転換により部内の雰囲気は最悪で、部会の時以外殆どの部員が部室
に訪れなくなっており、従って部室を片付けたりする者もおらず、部


© Rakuten Group, Inc.